雲の切れ間


「夢が欲しいんだ」
そう言って、私の好きだった人は、私をひとり置き去りにしていった。彼は、自分の夢を探すために、 私をひとり残していった。連絡先も何も告げず、私にどうしろとも言わずに、ただ、町から出て行った。 私の中には、どうしようもない雲だけが残った。
あれから半年が経っても、彼は帰ってこなかった。私は相変わらず、あの場所から動けずにいる。
「早く帰ってきてよ」
独り言が、いつまでも木霊している。

◇◇◇

「今日で187日目」
彼が出て行ってから、カレンダーにペケ印をつけるのが日課になってしまった。 会社から帰って、留守電をチェックしてから、真っ赤なペケを書く。我ながら、こんな自分がちょっと 情けないと思う。
昔の私は、こんなことをするような女じゃなかった。周りにいた女友達みたいに、彼氏から連絡があったのを カレンダーにメモったり、手帳に書き込んだりしてはしゃぐような、「女の子らしい女の子」ではなかった。 そんなこと、バカらしいとさえ思っていた。そんな私が今になって、10代の女の子がするようなことを、 当たり前の顔でしている。
おかげで、カレンダーにはまったく予定が書き込めなくなった。唯一会社に持っていく手帳にだけはペケを 付けていないけれど、家中のカレンダーというカレンダーにペケ印を書き込んでしまったから、 本当にどうしようもない。真っ赤に染まったカレンダーは、いつも私を見張っている。
テレビをつけると、毎週楽しみにしているトーク番組が、野球で放送されていなかった。彼が好きだった球団は 、今年も目立たないところで踏ん張っている。毎年、嫌々ながら付き合って、彼と野球放送を観ていた。 少しだけ、野球に詳しくなった。そして少しだけ、野球が好きになりかけていたけれど、今年はまったく観る気にも ならない。ほかに目ぼしい番組もやっていないので、私はテレビを切ってベッドに寝転んだ。

◇◇◇

「お願い、今日だけでいいから、コンパ来て。どうしても1人足りなくて」
 友達に頭を下げられて、断れずに参加したコンパ。彼氏はいないけれど、コンパには興味がなかった。 「いかにも」な感じが嫌だったし、何より男の子自体に興味を持っていなかったから、私は料理ばかり食べていた。
私は、お酒もそれほど飲めない。知らない人とも、上手にしゃべれない。だからこういう席は苦手で、 女の子だけの飲み会でも、あまり参加したことはなかった。 今日は益々、私ひとり、別世界にいるみたいだ。
周りの様子をチラリと見回し、軽くほほを染めた友達が目に入ると、少し気が滅入ってしまったが、 気を取り直して料理に箸を伸ばす。ひとつだけ残った鶏の唐揚があった。
「あ、ごめん。これ、食べる?」
隣の席に座っていた男の子が、こちらを見ずに言った。彼の箸と私の箸が、同じ唐揚に目をつけていたのだ。 それに先に気付いた彼が、声をかけてくれたらしい。
「いえ、どうぞ」
唐揚を譲ると、彼は「ありがとう」と嬉しそうに言って、それを口にした。
「すいません、ウォッカアイスバーグ追加」
傍を通った店員に、彼が声をかける。 彼の斜め前に座っている人が、見かねたように言った。
「お前、食ってばかりいないで、ちゃんと話に参加しろよ。何のために来たんだか分かんねぇじゃん」
「え、だってここ、お前たちのおごりだろ? おごってくれるって言うから来たんだよ、俺は」
「そんなんじゃ、一生彼女なんて出来ねーぞ」
「あぁ、いいのいいの。今は食べる方が大事」
口をモゴモゴさせながら、隣の彼は言う。
(私と似てる)
さすがに私は、自分の分はちゃんと出すつもりでいるけれど、相手の中にも私のような人がいるとは思って いなかったから、少しだけ肩の荷が下りた気がした。これで途中抜けすることも、そう難しくはないかもしれない。
「君さ」
「え?」
突然、唐揚の彼が話しかけてきた。目は、私を見ていない。相変わらず料理を見ている。
「君さ、何でここに来たの?」
「あ・・・人数合わせで」
「ふーん、そう。俺も同じ。おごってくれるって言うから来た。ここ料理美味いし」
「そうですか」
しーん・・・・・・
あっさりと会話は途切れてしまった。せっかく、話しかけてくれたのに。 こうなると、逆に気まずい。何か話さなくては、という気になって しまう。こういうとき、話し上手に生まれていたら、と思う。無理やり話を作る。
「あのっ」
「ん?」
「どこの大学の方なんですか?」
彼が顔を上げて、初めて私の方を見た。少し驚いたような顔。 私も初めて、彼の正面からの顔を見た。今まで見えたのは、 横顔ばかりだったからだ。思ったよりも、整った顔をしている。
「君、そんなことも知らずに来たの?」
「え・・・はい」
「ははっ」
彼は箸を持ったままの右手で、鼻をかきながら笑った。 私は急に、恥ずかしくなった。
「普通は、相手の大学とか学年とか、ちゃんと調べて来るもんだよ。まぁ、そういう俺も、君たちの事は全然知らないから、 言えた義理じゃないけど。君はどこの大学?」
「私は、女子大です。大下駅から、アクトラインに乗って10分くらい行ったところの」
「あぁ、山田女子ね。従姉妹が今年入学したから知ってるよ」
そう言いながら、彼は注文したお酒で、ぐいっと喉を潤した。
「俺は、山田女子よりアクトでもっと行ったところの、石光大」
「え? 石大って、共学ですよね? なのにコンパなんてするんですか?」
「あぁ、学部によるから。ここにいるメンバーは、みんな工学部。工学部って女の子少ないのよ」
彼は、ぐいぐいとジュースのようにお酒を呷り、次を頼もうと店員に声をかける。
「君は飲まないの? それ、ウーロン茶でしょ?」
「あ、はい。私、お酒弱いんです」
「でも、折角来たんだから、飲まないと面白くないよ」
そう言って彼は、ジン・フィズとチャイナブルーを注文した。
彼は、かなりお酒に強い。さっきから、だいぶ飲んでいる感じだ。カクテルにも、相当詳しいようだった。
「俺、今注文したやつ飲んだら帰るけど、君はどうするの?」
「あ、私も帰ります。人数合わなくなっちゃうから」
「そう。じゃぁ、俺が先に店出るわ。君、最初だと出にくいでしょ。俺が出てから10分か15分して出たらいいよ」
それから彼は、みんなに先に店を出ることを伝え、注文したお酒を今まで以上に凄い勢いで飲み干して、 さっさと出て行ってしまった。私のところには、青くて甘いお酒が残った。
「チャイナブルー」
初めて聞いたお酒だった。
「今の人、凄かったね。あんた、何話してたの?」
私の向かいに座っている真由が、顔を寄せて話しかけてきた。
「別に。ここの料理おいしいねって」
チャイナブルーに口を付けながら答えた。おいしい。これなら私にも飲めそうだ。
「ふーん、ほんとにそれだけ? この後、会う約束とかしてるんじゃないの?」
真由は面白そうに言った。私が大学の先生以外の男の人と話しているところなんて、見たことがないから だろう。
「まさか! 初めて会った人と、すぐどこかに行ったりするわけないじゃない。あ、私、もう帰るね。 明日の1コマ、ティーチングアシスタントやらないといけないから」
「えー、マジでぇ? あんた、そんなことまでやってたの?  学内の授業補佐のバイトなんて、ホンット真面目なんだから」
私は真由の言葉を半分聞き流し、さっきの彼のようにグイっとお酒を飲み干すと、みんなに適当に挨拶をして席を立った。 一気にお酒を呷ったせいか、ちょっと足元がふらふらした。
時計を見ると、良い具合の時間帯になっている。彼が出て行ってから、ちょうど20分が過ぎたところだった。 これなら、怪しまれることもないだろう。家にも、22時には着きそうだった。
「遅かったね」
店を出たところで、声をかけられた。
「待ってたんだ。大通りまで送っていこうと思って。この辺、ちょっと危ないから」
そこにいたのは、先に帰ったはずの彼だった。確かにここの辺りは飲み屋が多く、酔っ払いやちょっと 恐そうなお兄さんたちが多いと聞いている。私を安全なところまで送り届けるために、待っていたのだという。 だからと言って、このままこの人についていって良いのだろうか。不安があった。
「警戒しなくていいよ。何もしないから」
警察に捕まった犯人のように、彼は両手を顔の横に挙げて見せた。
「あ、はい。すみません」
顔が真っ赤になるのが、自分でも分かる。
「ははっ。君、面白いね。全部顔に出る」
彼は、また鼻をかきながら笑った。これは、笑うときのクセなのかもしれない。
私は彼に大通りまで案内してもらい、電車に乗って無事家に帰った。帰りに寄った家の近くのコンビニで、 ちょっとキツ目の炭酸飲料を買った。 なんだかいつもより、おいしい気がした。

◇◇◇

「あっ!」
声を出したのは、ふたり同時だったと思う。まさか、こんなところで出会うとは思っていなかったのだ。 あれから、2ヶ月あまりが過ぎていた。
「なんだ君、家この辺だったんだ?」
「あ、はい。ここから自転車でちょっと行ったところです」
「じゃぁこの間、送って帰ればよかった。俺、この上のマンションに下宿してんの」
彼はピッピと商品を通して「1531円です」と言った。このコンビニで、アルバイトをしているらしい。 あれからここには数回来たけれど、出会ったのはこの日が初めてだった。
「今日、この後ひま?」
「え?」
「俺、あと10分でバイト終わるんだ。ちょっと家来ない?」
私は、気が付くと無言のまま頷いていた。きっと、予感していたのだ。私は、彼を好きになると。
それからだ。私たちの距離が縮まったのは。それから、ふたりでいろんなところへ行った。野球観戦が、 初めてのデートだった。動物園も映画も、彼と行くと、それまでと違う場所へ行ったような気持ちがした。
彼は、私に新しい世界を見せてくれる人なのだ。

「ん」
唇に、やわらかい感触がした。
(そうだ、初めてのキス・・・)
「ごめん、もう我慢出来ない。ごめん」
彼はそう言って、もう一度キスをした。初めは、唇に軽く触れた。今度は、深いキス。首に触れる彼の手が、 とても熱くて。私を抱きしめる腕が、とてもやさしくて。
「好きだ。初めて話した時からずっと」
彼と出会って数ヶ月、私たちははっきりしない関係のまま、ズルズルしていた。付き合っていると言って良い のか分からないような関係。ふたりで会うことは、日増しに多くなっていたけれど。
デートを重ねるたび、彼に会うたびに、私は彼を好きになっていた。もうこの時には、離れられないくらい、 大きな存在になっていた。ただ、はっきりさせる勇気がなかっただけで。
「私も、好き」
私がそう言った時の彼の顔、忘れない。ずっと。
あのときの言葉もぬくもりも、今ここにあるようで、たまらなく愛しいから。
もう一度、唇にあたたかい感触・・・・・・がした気がした。
「あ、私・・・寝てた?」
時計の針は、深夜0時をとっくに回っていた。私はあのまま、眠りに落ちてしまったようだ。 スーツのスカートにも、思い切り皺が出来ている。
それにしても、なんてリアルな夢だったんだろう。なんだかとてもあたたかくて、とても幸せな夢だった。
もう少し夢に浸っていたかったけれど、明日も仕事だ。着替えて寝なくては、と思い、クロゼットに目をやる。
「え?」
クロゼットの横のカレンダーに目が留まる。真っ赤の中に、何か別の色のものがあった。 あんなもの、なかったはずだ。私は不審に思いながら、カレンダーに近寄った。
「写真?」
カレンダーに貼り付けられていたのは、空の写真だった。雲の切れ間から太陽の光が溢れ、降り注いでいる 写真。こんな写真は、家にはなかった。裏を見ると『ただいま』とだけ書かれてあった。真っ赤なペンで。 見慣れた、その字で。
その後、自分がどうしたかなんて、ほとんど覚えていない。ただ、必死になって走っていた。 写真を握り締めたまま。それ以外何も持たず、彼と再会したあのコンビニに向かって。

◇◇◇

どれくらい来たのか、残りは何キロあるんだろう。こんなことなら、実家を出るんじゃなかった。 私は社会人になってから、彼の下宿先と近かった実家を出て、隣町で1人暮らしをしていたのだ。
玄関で何も考えずに引っかけた、ヒールの高いパンプスが悲鳴をあげていた。何度も何度も転んで、 ストッキングはボロボロ、私の足もボロボロだった。
「あっ!」
右足のヒールが、とうとう折れた。私は、派手に足をひねって転んだ。
「いったぁ……」
もう、歩くことすら出来ない。
「高志・・・・・・高志!」
私は、ただひたすら叫んだ。気が狂ったように。夜中だろうと関係なかった。周りの人間なんて関係なかった。 ただ、どこにいるか分からないその人を振り向かせるためなら、何だって出来る。最大限声を張り上げて、 名前を呼んだ。
今私に出来るのは、これしかないと思ったから。
だんだん、声が出なくなってきた。どれくらいここにいて、何回名前を呼んだのかも、分からなくなった。 足は痛くて、膝も掌もすりむけていて、本当にボロボロだった。へたりこんだ私の横には、もう二度と 履けなくなったパンプスが、ごろりと転がっている。私の姿を見た人は、一体どう思ったろう。 空はもう、東の方から白み始めている。
「由香子?」
犬の散歩をさせる人がちらほら出て来始めた頃、誰かが私の名前を呼んだ。聞きなれた声、ずっと聴きたかった声。 顔を上げると、彼がいた。
彼は、両手に大きなダンボールを抱えていた。驚いたように駆け寄る彼の姿を確認すると、涙と一緒に 苦笑いみたいな、おかしな笑いがこみ上げた。名前を呼びたいのに、声にならない。
「え、おい、由香子? どうしたんだよ、ちょっと」
やっとのことで両手を伸ばすと、彼まで届いた。彼も荷物を置いて、私を抱きしめてくれる。 やっと、彼との距離が近付いた。
「また、いなくなっちゃうかと思った」
「え? だって俺、ちゃんと置いていっただろ?」
耳元で、少し驚いたような彼の声がした。
「だって、こんな写真じゃ、不安だもん」
「いや、荷物・・・・・・」
彼は私から身体を離すと、私の姿を再確認して吹き出した。
「俺、お前の部屋に荷物置いて出てきたんだけど、気付かなかった?」
「え?」
「お前、よく寝てたからさ、起こさない方が良いと思って。お前が起きる前に、残りの荷物持って行こうと 思ってたんだよ」
「・・・・・・全然、気付かなかった」
「はは、やっぱりお前、面白いや」
彼は鼻をかきながら笑うと、持ってきたダンボールをあけた。立ち上がって、中から取り出した何かを 宙に向かってバサリと投げた。
「これ、全部俺が今まで撮ってきた写真。お前にやるよ」
空から降ってきた沢山の写真は、雲の切れ間から光がこぼれる写真ばかりだった。
「これが俺の夢。お前の好きな空撮るのが、俺の夢なんだ」
彼は照れたように笑った。
「もう、バカァ」
私は顔を真っ赤にして、泣きながら笑った。久々のキスは、ちょっとしょっぱい味がした。
心の雲が晴れ始め、私の中で久し振りに太陽が笑った。



                            END