ファミリー


(何なのよ、一体? これは私の目の錯覚?)
1週間前から、急にユーレイが見えるようになった。そう言ったら、みんな笑うでしょ?  でも本当なんだってば。そのユーレイとは、1年前に亡くなった、私のお母さん。
『おはよう、円。ちょっと、何やってんの、早く起きなさい。学校行く時間でしょ』
ユーレイに、大声でたたき起こされた。これは、1年前まで毎朝当たり前だった光景。だけど、まさか こんな形で復活することになるなんて。
私はのそりと起き上がると、まだ寝ぼけた足を梯子にかけて、少し埃の被ったフローリングに降り立った。 家族三人で生活していた私たち。母中心に回っていた我が家は、母が死んで、父と私だけになって、 急にしんと寂しくなった。
『円、おはようくらい言いなさい。挨拶はちゃんとしなさいって、いつも言ってるでしょう』
これは母の口癖だった。「挨拶はちゃんとしなさい」ってやつ。挨拶が出来る子は、大人にも子供にも、 誰にでも好かれるんだって。挨拶が出来たおかげなのか、母が死んでからも、私は近所のおばちゃんたちから かわいがってもらっている。
だけど、ユーレイには、挨拶なんてしない。だって、おかしいじゃない。ひとりで勝手にしゃべってたら。 お母さんが見えてるのは、私だけなんだから。
『円、聞いてるの?』
聞いてるよ、聞いてます。でも、お父さんが見たら変に思うでしょ。誰もいないところで「おはよう」 なんて。お父さんには心配かけたくないんだ、私。それに、これが本当にお母さんだって、信じたわけ じゃないんだから。
「円、おはよう」
リビングに行くと、父がいつものように新聞を読みながらタバコを吸っていた。朝ごはんも、 ちゃんと作ってくれている。父は、母が死んでから、またタバコを吸うようになった。 私が幼稚園の頃禁煙を始めて、母が死ぬまで1本も吸ったことなんてなかったのに。それだけ、母が いなくなった心の穴は、大きいということだろう。
「おはよう、お父さん」
『なんだ、お父さんには挨拶するのね。お母さんにはしないくせに』
ユーレイがふてくされたように言った。でもちょっと嬉しそうだ。そうだ、母は私たちが外できちんと できることを、心から喜ぶ人だった。
「今日、お父さん遅くなるから、夕飯外で食べてくれな」
「うん、わかった。お茶漬けとか食べれるようにしておいた方がいい?」
「いや、いいよ。なるべく早く帰る。戸締りだけはちゃんとしろよ」
「うん、分かってる」
父は短くなったタバコをガラスの灰皿にこすり付けると、新聞をたたんで席を立った。今、仕事が 忙しいらしい。ここ1ヶ月、夜遅いことが多くなった。
『お父さん、忙しいのかしら。体が心配ね』
ユーレイが言った。うん、心配。お父さん、無理しちゃうタイプだから。
「さ、ご飯食べよ」
『お父さんの料理、おいしい? お母さんが作れたらいいんだけど・・・・・・』
いつもなら虚しくリビングに響く独り言に、ユーレイの言葉が返ってきた。
本物のお母さんかどうかも分からないユーレイが見えるのは、とても嫌なことだけど、こういうときだけ、 ちょっとありがたいと思った。
ユーレイはいつまでも、ものを通り抜けてしまう自分の体を呪っていた。

◇◇◇

「ね、円さ、最近おかしなことあった?」
突然、級友の杏に言われてドキっとする。つい、自分の背後を気にしてしまう。あのユーレイは、 家の外まではついて来ないと分かっているのだが。
「え、何で?」
妙な間をあけながらも、私は平然を装って答えた。
「うーんとね、黙っていようかとも思ったんだけどさー。黙ったままだと後で困ることになるかも 知れないから言っちゃうけど、3日前にここで撮った写真あるじゃん。あれ、あんたの横に何か写って たんだよねー」
そう言うと、杏はカバンの中から封筒を2つ取り出した。1つは私が写ってる写真数枚が入ったもの。 もう片方の封筒には、何か手紙らしきものと1枚の写真が入っていた。その1枚の写真が、問題のものらしい。
裏返しのまま手渡されて、私はゴクリと唾を飲んだ。
(変なものが写ってるって言ったら、あのユーレイしかないじゃんよ)
ゆっくりと写真を表に返す。怖い。何が写ってるか予想がついてるとはいえ、怖いよ、やっぱ。
「ほら、あんたの肩のとこ。これ、手じゃない?」
杏が指で示したところには、確かに手に見えるものが写っていた。左手だ。しかも、私の横というより、 完全に私の肩に載っている。
私は、ほーっと息を吐いた。もっともっと、母のユーレイだと分かるくらい、はっきり写っているのかと 思っていたのである。
「なんだ、もっと凄いのかと思った。良かった」
「何言ってんの! これだけでも凄いことだよ? あたし、この写真、『恐怖体験ドットこい』に送ろうと 思ってんのに!」
杏は捲くし立てるように言った。『恐怖体験ドットこい』とは、その名のとおり、心霊写真や恐怖体験を 取り扱ったテレビ番組だ。今回のような写真は、よくあるパターンである。でも、ちょっと待ってよ。 この写真を送る? それは困る。
「杏、ちょっと待って。私困るよ、このこと学校の人たちに知られたら。何か言われるの、私なんだよ」
「そ、それはそうだけど・・・・・・」
「この写真、貰っていくからね。絶対投稿したりしないでよ!」
もっともな意見を杏に押し付け、私は写真を持ってトイレに駆け込んだ。しっかりと鍵をかける。 ここなら誰にも何も言われずに、じっくりと写真を見ることが出来る。私はじっくり、写真に写る左手を 観察した。
(あれ、この左手、薬指に指輪してる?)
それは小さくて、よくは分からなかったけれど、確かにリングのようだった。帰りに拡大コピーをして帰ろう。 そうしたら、もう少しはっきり分かるかもしれない。
私は写真をスカートのポケットに入れると、きょろきょろと辺りを見回しながら、トイレを後にした。 人間おかしなもので、何か秘密があると挙動不審になるようだ。

◇◇◇

その夜。
なぜか今日は、胸がそわそわした。あの写真のせいだろうか。せっかく父が作ってくれたカレーも、 あまり美味しくない気がする。
「円、来週の日曜日、空けておいてくれないか」
父が言った。何だろう、いきなり。とても真面目な顔。こんな父の硬い表情、母が死んだとき以来 かもしれない。
「来週の日曜日の夜、久々に一緒に夕飯食べに行こう」
父は、何か私に言いたいことがあるのだろうか。父は私たち家族に言いたいことがあるとき、 必ず夕食を食べに行こうと誘う。転勤の話を聞いたのもファミレスだったし、母が死ぬかもしれないと 聞いたのも、隣町のファミリーレストランだった。
父に話があるのかと尋ねると、父は「日曜日に話すよ」とだけ言って、タバコに火をつけた。 少しほっとした顔。きっととても重大な何かを、私に話そうとしているのだろう。それだけは分かった。
私は、やらなくてはいけないことがあったのを思い出して、残りのカレーを急いで口に運んで、 リビングを出た。生前母が使っていた箪笥のある部屋へ行くのだ。父は、やっぱり、タバコを短くなるまで 吸っていた。

◇◇◇

「あった、これだ!」
私は、箪笥の奥にあった小さな箱を取り出した。そっと箱を開くと、小さなダイヤの指輪が入っていた。 母の婚約指輪である。入院する前まで、母がずっとしていた指輪だ。 私はその指輪を持って、急いで自室に向かった。そして部屋の鍵をかけると、今日学校帰りにとってきた、 例の心霊写真の拡大コピーを開いた。
「同じだ、これと……」
写真の手がしていた指輪は、ちょっと分かりにくいけど、確かに母の指輪と同じものだった。 何度も何度も見比べる。見比べるたびに、真実がひとつになる。
(やっぱり、お母さんだったんだ)
そのとき背後で声がした。ユーレイである。
『円、何してるの? あ、それ、お母さんの婚約指輪じゃない』
母は、指輪の近くに寄って、もう二度と手にすることのできないそれを、懐かしそうに眺めた。そして、 写真に気付く。
『あら、やっぱりお母さん写っちゃったのね。顔が写らなくて良かった。円も良い顔で写ってる』
嬉しそうに話す母。
(どうして出てきたの?)
(やっぱり、お母さんなの?)
このユーレイは本当に母なのだと確認すると、自然に涙が出てきた。母は、何かやり残したことがあって、 戻ってきたのかもしれない。もしかしたら、最初から成仏なんてできていなかったのかもしれない。 だとしたら、この1年間、どこにいたの? ユーレイになった母の左手には、この指輪と同じものがあった。
『円、どうしたの? どうして泣くの? 円、泣かないで』
心に響く母の声が、とてもあたたかくて、私は涙を拭うのも忘れて、ただひたすら泣いた。

◇◇◇

「佐藤さん、こっちです」
日曜日、隣町のファミリーレストランで父と私を出迎えたのは、父より少し若そうな女の人だった。
「円、こちら、お父さんの同僚の大滝カオルさん。カオル、これがうちの娘、円だ」
「こんにちは、円ちゃん。大滝です。よろしくね」
大滝と名乗った女の人は、私の顔を見てにこにこと笑った。曇りのない笑顔。自信で輝く笑顔だった。 そうか、こういうことだったのか。父が私に話したいと言っていたのは、再婚の話だったのだ。 証拠に、父はこの人のことを「カオル」と呼んだ。
「こ、こんにちは」
挨拶はしたものの、顔は引きつっていたと思う。再婚と知って、喜べるはずがない。母が死んで、 まだ1年しか経っていないのだ。
「お父さんたち、結婚しようと思うんだよ」
席に着いてまもなく、父が言った。父は、とても幸せそうな顔をした。母と3人で楽しく暮らしていたとき みたいに。とても清々しい笑顔だった。
「式は挙げないつもりなの。私も再婚だし、もう歳も歳だし」
隣同士に座った彼らは、恥ずかしそうに、そしてとても幸せそうに笑う。その笑顔を見るたびに、 私は笑えなくなった。家に帰ったら、ユーレイになったお母さんがいる。そう思うだけで、とても苦しかった。
「お父さん、私、気分が悪いから先に帰りたい」
料理が運ばれてまもなく、私はやっとこれだけを口にすることが出来た。いつもなら人の分まで貰って 食べるエビフライも、今日は喉を通らない。昔、おやつに母が作ってくれたホットケーキが、 無性に食べたかった。
「円、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。1人で帰れるから、お父さんはゆっくりしてって」
「じゃぁ私、表まで送ってきますね」
私は、大滝さんと二人で店を出た。こんなはずじゃ、なかったのに。ため息をついたら、大滝さんが きっかけを待っていたかのように話しかけてきた。
「円ちゃんは、私たちの結婚、反対?」
一時の沈黙が流れた。私が無言でいると、続けて大滝さんがしゃべる。私はうつむいたまま、 話を聞いていた。
「お父さん、今でもタバコ吸ってらっしゃるでしょ? お母さんが亡くなってから、ずっと吸い続けて いるのよね。私がお父さんとお付き合いするようになって、もう半年になるけど、お母さんの居た場所は、 私では埋められないわ」
大滝さんは、ふふふ、と寂しそうに笑った。
「ほら、よく言うでしょう、死んだ人への想いは追い越せないって。きっとそれなんだと思う。 でも、私、それでもお父さんのこと、好きなの。お父さんが、まだ死んだお母さんのことを想ってても、 それでも私は、お父さんが好きなの。大切なの。だから円ちゃん、お父さんを私にちょうだい」
私は、初めてこの人ことを思った。
(タバコをやめない父と、今までどう接してきたんだろう)
タバコを吸い続ける父のことを思った。
(どうしてタバコをやめないんだろう)
そして、ユーレイになった母のことを思った。
(どうして、私の前に現れたんだろう)
私は、こぼれてくる涙を拭いながら、消え入りそうな声で「ごめんなさい」とだけ言って、 ひとり青になった横断歩道を走った。大滝さんは最後まで、私の名前を呼んでいた。 彼女の声が、ずっとずっと、耳に残った。

◇◇◇

「お母さん、どうして出てきたの?」
私は、ユーレイになった母に、初めて声をかけた。私が泣きながら家に帰って泣き止むまで、 ずっと声をかけてくれた、とても優しい私のユーレイ。
『なんだ、お母さんのこと見えてたんだ。円になら見えるんじゃないかって、ずっと思ってた』
母は嬉しそうに、でもどこか切なそうに笑った。
『お母さんね、お父さんに、これを返しに来たの』
母は、私に指輪をした左手を見せた。そして『これはね、お父さんの想いが形になったものなのよ』と、 大切そうに指輪を触りながら言った。
『お父さんがお母さんのこと、死んでからも想ってくれてる証。これを、返しに来たの』
母は微笑みながら、泣いているような顔をした。
『これをお母さんが持っていると、お父さん、いつまでもタバコがやめられないんだって。人は死んだとき、 沢山の想いを貰って天国へ行くのね。そして、時期が来ると、その想いを、天から地上のみんなに返すのよ。 そうして、死者はみんなの思い出に変わるの。変わらなくちゃいけないの。この指輪はね、想いが強すぎる んだって。だから空からでは返せなくて、直接返しに来たの』
母は、指輪をそっと外した。そして私に、結婚指輪を取って来るように言う。私は母の話を聞いて、 なんとなくだけど、母が出てきた理由が分かった。母は、愛する父を救うために、出てきたのだ。 大切な人を救うために。
私は半ベソになりながら、指輪を持ってきた。母の前に、ケースの蓋を開いて置く。本当は母にこのまま いて欲しかったけれど、母の気持ちが、痛いほど分かったから。
『円、お母さんはこの世界から消えちゃうけど、大丈夫よ。ずっと、あなたやお父さんのこと想ってるから。 だから今度は、大滝さんに優しくしてあげて』
「お母さん、知ってたの?」
『うん、知ってた。ずーっと前から、知ってた。ね、円、大滝さんは、円やお母さんと同じように、 お父さんのことを大切に想ってくれる人よ。自分の大切な人を大切に想ってくれる人が増えるのって、 とても嬉しい事ね』
そう言って、母は自分がしていた指輪を、結婚指輪の上から落とした。母の半透明の指輪は、銀に輝く 指輪に吸収されていく。次々に涙がこぼれた。母が泣かないのだから、私も泣いてはいけないと思っていた けれど。
『円、この指輪をお父さんに返して。お母さんがありがとうって言ってたって、伝えて。それだけで 分かってくれると思うから』
これで、この世での目的を果たした母は消えてしまう。私はボロボロ泣いた。母が見えたときから話を していたら良かったと、そのことがとても悔やまれた。涙が止まらない。
『円、大丈夫。円なら大丈夫。今は辛くても乗り越えられる。お母さん、ずっと見てるよ。この世で 一番大切な、円とお父さんのこと、ずっと見てるから』
「お母さ・・・・・・」
次の瞬間、もう母の姿はなかった。床には、ダイヤの指輪が、母がここにいたことを証明するかのように、 輝いていた。

◇◇◇

「お父さん」
「円、どうしたんだ? 気分は?」
「もう大丈夫。座ってもいい?」
私は母の指輪を持って、再びレストランに戻った。大滝さんは席を外しているらしく、ここにはいなかった。 私は父の向かいの席に座り、指輪を取り出した。
「円、この指輪・・・・・・」
「うん、お母さんがね、お父さんに渡してくれって」
「お母さんが? そうか・・・・・・。円、お母さんと話したのか?」
「え、どうして?」
「なんとなく、お母さんがすぐ近くにいるような気がしたんだ」
「そっか。お父さんも気付いてたんだね。お母さん、ありがとうって言ってたよ」
父は最後に「そうか」とだけ言って、懐かしそうにその指輪を眺め、目に浮かんだ涙を拭った。

◇◇◇

「円ちゃん、早く早く」
父と大滝さんは、あれから1ヶ月後、入籍した。式は挙げず、今日、記念写真だけを撮る。
「大滝さん、これ、持って写ってもいい?」
私は、杏から貰った、母と一緒に写った最後の写真を持ってきた。
大滝さんは「もちろん」と言って笑った。母の結婚指輪を首から下げた父も笑った。そして、私も笑った。
こうして、私の新しい「家族」が誕生した。



                            END